――母が隠し続けた過去。父が語らなかった真実。そして、一人の男の不可解な死――
母は、私にとって優しい人だった。決して裕福ではなかった末元家。四人の子供を育てながら、家事に追われ、家族のことを第一に考えて生きてきた母・和美。
幼いころ、母は何度も私の名前の書き方を教えてくれた。
「ト・ミ・ヲ。最後はオじゃなくて、ヲよ」
そんな何気ない母との思い出は、年齢を重ねた今でも鮮明に残っている。しかし、母が亡くなった後、私は知らなかった母の姿に出会うことになる。それは、母が長年書き続けていた一冊の手帳から始まった。

母の手帳に残されていた、ある男への憎しみ。末元冨雄は、父・巌の死後、遺品の中から父が残した手帳を受け取っていた。几帳面だった父の手帳には、仕事の記録や家族の出来事が淡々と書き留められていた。
ところが、母の四十九日を終えた後に見つかった手帳は、父のものとはまるで違っていた。
そこには、家族の前では決して見せなかった母の感情が記されていた。
喜び、悲しみ、後悔。そして、ある人物に対する激しい憎しみ。その人物の名前は、岩瀬敬一。かつて父と深い関係にあった男であり、母が生涯忘れることのできなかった人物だった。
母の手帳には、こんな言葉が残されていた。「あの人は二度、私から大切なものを奪った」二度とは、何を意味しているのか。岩瀬は、いったい母から何を奪ったのか。
冨雄は、父の手帳と母の手帳を照らし合わせながら、両親が生きた時代を調べ始める。戦争が終わったころ、父には別の妻がいた。調査を進めるうちに、冨雄は父の若いころの出来事にたどり着く。
戦争が終わったばかりの混乱した時代。父・巌は、岩瀬の妹と結婚していたという。しかし、それは愛情によって結ばれた、ごく普通の結婚ではなかった。
ある事情から望まない縁談を迫られていた岩瀬の妹を救うため、巌は一つの役割を引き受けていた。戦争で行方が分からなくなった男性の身代わりになること。
その結果、巌は自分の人生を大きく変える秘密を背負うことになった。母・和美は、その過去を知ったうえで巌と結婚していた。それなのに、なぜ母は何十年も岩瀬を憎み続けたのだろう。
父の最初の結婚が、母の人生にどのような影を落としたのか。さらに調べるうちに、冨雄は父の過去に、まだ知らされていない出来事があることを感じ始める。
母が許せなかった、もう一つの出来事。
末元家には、幼いころから耳が不自由だった息子・誠司がいた。母は誠司を誰よりも気にかけ、周囲の偏見から守ろうとしていた。ところが、母は誠司の聴覚障害について、ある疑いを抱いていた。
岩瀬が役員を務めていた会社の製品が、誠司の耳に悪い影響を与えたのではないか。確かな証拠があったわけではない。それでも母は、その疑念を長い年月、胸の奥にしまい込んでいた。
父の過去に関わり、息子の人生にも影を落としたかもしれない男。母にとって岩瀬は、決して許すことのできない存在になっていた。そして冨雄は、岩瀬がすでに不可解な死を遂げていたことを知る。
自殺とされた男の死。
岩瀬の死について、警察は自殺と判断していた。現場の状況に加え、死後しばらくして見つかった本人のものとされる書き付けには、過去の行いを悔やむ言葉が残されていたという。しかし、それは明確な遺書ではなかった。
自ら命を絶つと書かれていたわけでもない。死亡した日時や、その前後に何が起きたのかについても、冨雄には分からないことが多かった。母の手帳を読み返すうちに、冨雄の胸に一つの疑問が浮かぶ。
母は、岩瀬が亡くなる前に会っていたのではないか。そして、母は岩瀬の死について、何かを知っていたのではないか。冨雄はそんな疑いを抱いた自分自身に戸惑う。母が人を殺すはずなどない。
そう信じたい。
しかし、母の手帳には、冨雄の知らない激しい感情が残されていた。同じ日付に記された、父と母の違う言葉。父の手帳と母の手帳には、同じ日付の記録が残っていた。父は書いていた。
「和美に話す。思っていたより静かだった」
一方、母はこう記していた。
「あの人から聞いた。知らない方がよかった」
父は何を話したのか。
母は何を聞かされたのか。同じ出来事について書かれているはずなのに、二人の言葉はまるで違っていた。冨雄は、手帳に書かれていない部分にこそ、真実が隠されているのではないかと考え始める。
さらに、耳の不自由な兄・誠司との暮らしの中で身につけた、不完全な読唇の経験が、思いがけない場面で冨雄を惑わせる。
誰かが口にした言葉。
聞こえなかった声。
読み取れたはずの短い一言。
それは真実を示しているのか、それとも自分が見たいものを見ているだけなのか。母を疑うことは、母を裏切ることなのだろうか? 調べれば調べるほど、冨雄の知っていた両親の姿は変わっていく。
寡黙だった父には、家族に話せなかった過去があった。優しかった母には、長い年月をかけても消せない嫉妬と憎しみがあった。しかし、母の人生を知ることと、母の罪を証明することは同じではない。
母が岩瀬を憎んでいたとしても、それだけで人を殺したことにはならない。冨雄は、母を信じたいと思う。その一方で、母が何かを隠していたことも否定できない。
やがて冨雄は、両親の過去に関わる人物を訪ね、長い間語られなかった家族の歴史に触れていく。そこで明らかになるのは、単純な善悪では割り切れない、人間の愛情と弱さだった。
人は、大切な人を守るために、どこまでのことができるのだろう。そして、愛する人への思いが、いつしか憎しみに変わることはあるのだろうか。
母の愛情は本物だった。
母の嫉妬も、また本物だった。
それでも私は、母を信じたい。
亡き母が残した手帳をめぐり、息子が家族の知られざる歴史をたどる、愛と嫉妬の長編ミステリー。
『母の愛と嫉妬を知り、それでも私は母を信じたい』
拓夢書房より刊行予定。

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