小説「1945年に始まった恋」

――あの人は、本当に死んだのだろうか。

1945年。戦争が終わろうとしていたころ、一人の若い男性と女性が出会った。男性の名前は、末元静。山口県の山あいに生まれ、炭焼きを生業とする家で育った青年だった。

女性の名前は、白石紀代。四国に実家を持ち、沖縄で教師として働いていた女性である。二人が出会ったのは、沖縄から九州へ向かう船の中だった。

戦争によって故郷を離れる人々を乗せた船。そこには、幼い子供を連れた母親や、家族とはぐれた人々の姿があった。紀代もまた、戦火を逃れるために船に乗っていた。

船内で子供たちの世話をしていた紀代に、静が声をかけた。最初は、ほんの短い会話だった。しかし、狭い船内で顔を合わせるうちに、二人は互いの故郷や家族について語り合うようになる。

静は山口県の錦町で暮らす家族のことを話した。父は山奥で炭を焼き、母は三人の息子を育ててきた。母の名前はシモ。静は、母が手作りした小さなお守りを持っていた。

布には末元家の家紋が縫い込まれている。「兄弟三人に、一つずつ作ってくれたんです」紀代は、その家紋を不思議とよく覚えていた。まさか、その小さなお守りが、自分の人生を大きく変えることになるとは知らずに。

沈みゆく船に戻っていった青年。二人の出会いは、突然終わりを迎える。航行中の船が敵軍の攻撃を受けたのだ。船内は混乱し、人々は逃げ場を求めて押し寄せた。静は紀代を助け、さらに幼い子供たちを救い出そうとする。

海に投げ出された人々。助けを求める声。沈み始めた船。静は紀代と子供たちを安全な場所へ導くと、再び船の方へ泳ぎ始めた。まだ助けを求めている人がいたからだ。

紀代は何度も静の名前を呼んだ。しかし、静は振り返らなかった。それが、紀代が見た静の最後の姿となった。やがて船は沈み、静の行方は分からなくなる。

遺体は見つからなかった。

静が亡くなる瞬間を見た人もいなかった。それでも、故郷の末元家には、静の死亡を知らせる簡素な通知が届く。家族は、静が帰らぬ人になったと受け入れるしかなかった。

岩国で待っていた、もう一人の女性。戦争が終わっても、紀代は静のことを忘れられなかった。命を救ってくれた恩人だからなのか。それとも、短い時間の中で芽生えた恋心だったのか。

紀代自身にも、その答えは分からなかった。ただ、静が話していた山口県岩国の地名と、母の手作りのお守りだけは覚えていた。紀代は、わずかな手がかりを頼りに岩国を訪ねる。

そこで出会ったのは、静の帰りを待ち続けていた錦戸家の娘だった。しかも、彼女には幼い子供がいた。その子供の身につけていたお守りを見た瞬間、紀代は言葉を失う。末元家の家紋。

船の中で静が見せてくれたものと、同じ模様だった。錦戸家の娘は、静と結婚を約束していたという。二人は正式な夫婦になる前に引き離され、静は戦地へ向かった。

そして、静が帰ることのないまま、子供が生まれた。紀代は初めて知る。自分が心を寄せた青年には、故郷で待っている女性がいたことを。そして、父の顔を知らない子供がいたことを。

紀代は、静が最後に見せた姿を彼女に伝えるべきか迷う。静は最後まで人を助けようとしていた。しかし、その言葉が、彼女から最後の希望を奪うことになるかもしれない。

静によく似た、記憶のない男性。その後、紀代は思いがけない人物に出会う。ある病院で雑用をしながら暮らしていた、一人の男性だった。男性は、海岸に流れ着いたところを救助されたという。

自分の名前も、故郷も、過去の出来事も覚えていなかった。しかし、その顔を見た紀代は立ち尽くす。静に、あまりにもよく似ていたのだ。さらに男性は、末元家の家紋が入ったお守りを持っていた。

救助されたとき、手に引っかかっていたものだという。病院の人々は、当然その男性の持ち物だと思っていた。しかし、本当にそうだったのか。沈没した船から流れ着いた誰かのお守りが、偶然その男性の手に引っかかった可能性もある。

紀代は男性に静の名前を告げる。だが、男性は何も思い出さない。紀代のことも、船のことも、末元家のことも。それでも紀代は、その男性を放っておくことができなかった。

彼女は男性を連れ、四国にある自分の実家へ帰ることを決意する。そこには紀代の両親が暮らしていた。やがて四人の静かな生活が始まる。

紀代は男性の記憶が戻ることを願いながら、同時に、戻らないことを望んでいる自分にも気づき始める。もし、この男性が本当に静だったなら。岩国には、彼を待つ女性と子供がいるのだから。

弟を探しに四国へ向かった兄。やがて、静によく似た男性が四国で暮らしているという噂が、末元家にも届く。静の兄・巌は、その話を確かめるために四国へ向かった。

巌もまた、母シモからもらった家紋入りのお守りを持っていた。もし男性が静なら、家族はようやく再会できる。しかし、巌は紀代にも男性にも会うことができなかった。面会を断られたのか。

それとも、二人がそこにいなかったのか。詳しい事情は分からない。巌は弟の生死を確かめられないまま、故郷へ戻る。その出来事について、巌は手帳にわずかな言葉だけを残した。

それから長い年月が過ぎていく。父の手帳が導いた、数十年後の出会い。時代は現代へ移る。父・巌と母・和美を亡くした末元冨雄は、両親が残した手帳を読みながら、家族の過去を調べていた。

そこで冨雄は、父がかつて四国へ弟を探しに行っていたことを知る。そして、白石紀代という女性の存在にたどり着く。紀代はすでにこの世を去っていた。

しかし、冨雄は調査を重ね、彼女の子孫と会うことができた。古い写真。残された手紙。家族の間で語り継がれてきた、名前の分からない男性の話。

一つずつ明らかになる事実が、静の生存を思わせる。その一方で、どうしても説明のつかない出来事も残されていた。冨雄は考える。あの男性は、本当に静叔父だったのだろうか。

現代であれば、血縁関係を調べる方法もある。しかし、真実を明らかにすることが、必ずしも正しいとは限らない。一人の男性を静だと信じて生きた女性。静の帰りを待ち続けた女性。

そして、父を知らずに育った子供。それぞれに、戦争が終わった後の長い人生があった。冨雄は、父の手帳を閉じる。そこに書かれていなかった答えを、今になって求めるべきなのだろうか。

あの人は、誰だったのだろう。母シモが三人の息子に作った、家紋入りのお守り。一つは巌の手元に残り、一つは静の子供へ渡された。そして、もう一つは記憶を失った男性とともに海岸へ流れ着いた。

三つのお守りは、戦争によって引き裂かれた人々の運命を静かにつないでいく。あの男性は、静だったのか。それとも、静によく似た別人だったのか。そして、白石紀代は何を知り、何を隠して生きたのだろう。

戦争の中で生まれた短い恋と、戦後の長い年月を生き抜いた人々。失われた記憶をたどりながら、愛することの意味を問いかける長編小説。

1945年に始まった恋。拓夢書房より刊行予定

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