山口県の山あいにある錦町。末元実男は、炭焼きを生業とする家の三男として生まれた。父は山奥で炭を焼き、母シモは三人の息子を育てながら、貧しい家計を支えていた。
父が焼いた炭は、錦川を下る川舟に積まれ、岩国の卸問屋・錦戸家へと運ばれていた。末元家と錦戸家の付き合いは、実男が幼いころから続いていた。
やがて川舟による輸送が減り、錦戸家が手配したトラックで炭を運ぶようになる。次男の静と三男の実男は、家業を手伝いながら、自動車の運転を覚えていった。そして、兄弟が岩国の錦戸家を訪れる機会も増えていった。

その錦戸家には、澄江という娘がいた。実男にとって澄江は、幼いころから顔を知っている、少し年上の女性だった。しかし、澄江が心を寄せていたのは実男ではない。
兄の静だった。 兄が愛した女性。静は、実男とは対照的な性格だった。落ち着きがあり、誰に対しても誠実で、困っている人を見過ごせない。実男は、そんな兄を尊敬していた。
錦戸家の澄江もまた、静の優しさにひかれていた。二人が結婚を約束したと聞いたとき、実男は心から喜んだ。兄が幸せになることは、自分にとっても嬉しいことだった。
ところが、戦争は二人の未来を変えてしまう。静に出征の命令が下ったのだ。静と澄江は、戦争が終わったら正式に結婚することを約束する。結婚式も、入籍も、それからでいい。二人はそう考えていた。
しかし、静が故郷を離れた後、澄江の妊娠が分かる。静は、自分に子供ができたことを知らないまま、遠い戦地へ向かっていた。実男は、兄の帰りを待つ澄江を気にかけながら、錦町で家業と豆腐料理店の仕事を続けていた。
帰らなかった兄。
1945年。戦争が終わり、各地で兵士たちが故郷へ戻り始めた。しかし、静は帰ってこなかった。末元家には、静の死亡を知らせる簡素な通知が届いた。沖縄から九州へ向かう船が攻撃を受け、沈没したという。
遺骨も、遺品も戻ってこない。静の最期を見届けた人もいなかった。実男は、その知らせを澄江に伝える役目を引き受ける。岩国へ向かう道は、これまで何度も兄と通った道だった。
しかし、その日、実男は一人だった。錦戸家を訪ねた実男は、澄江に兄の死を告げる。澄江は何も言わなかった。泣き崩れることも、取り乱すこともなかった。ただ、腕に抱いた幼い子供を見つめていた。
実男は、母シモからもらった家紋入りのお守りを取り出す。兄弟三人が、それぞれ一つずつ持っていたものだった。
「これは、母が私に作ってくれたものです。兄の形見ではありませんが、この子に持たせてやってください」
澄江は、しばらくお守りを見つめていた。そして、小さく頭を下げた。そのとき実男は、兄に代わって、この母子を守らなければならないと思った。 兄の代わりとして生きる日々。
戦争が終わっても、人々の暮らしはすぐには豊かにならなかった。食料は不足し、商売も思うようにはいかない。錦戸家もまた、軍への物資納入という大きな取引先を失い、経営の立て直しを迫られていた。
実男の豆腐料理店も苦しい状況にあった。それでも実男は、仕事で岩国へ出向くたびに錦戸家を訪れた。澄江と子供の様子が気になったからだ。最初は、亡くなった兄への責任感だった。
兄が守れなかったものを、自分が守りたい。その思いだけだった。しかし、年月が過ぎるにつれて、実男の気持ちは少しずつ変わっていく。澄江が笑えば嬉しかった。澄江が困っていれば、力になりたかった。
そして、澄江の子供が自分を慕ってくれることが、何よりも嬉しかった。いつしか実男は、兄の許婚だった澄江を、一人の女性として愛するようになっていた。だが、その思いを口にすることはできなかった。
澄江の心には、今も静が生きている。実男自身も、兄を裏切るような気がしてならなかった。 あなたは、静さんではない。ある日、澄江は実男に言った。
「あなたは、静さんに似ているところがあるわね」
実男は、その言葉を嬉しく思うと同時に、胸が苦しくなった。澄江は、自分の中に兄の姿を見ているのだろうか。自分がそばにいることで、澄江は静を忘れずにいられるのだろうか。もしそうなら、自分はいつまでたっても兄の代わりでしかない。
実男は、澄江から距離を置こうとする。しかし、今度は澄江が実男を訪ねてくる。商売に失敗し、店を閉めようとしていた実男に、澄江は言う。「あなたが困っているときに、私が何もしないと思っているの?」
実男は初めて気づく。自分だけが澄江を支えていたのではない。澄江もまた、自分の人生を支えてくれていたのだ。
四国から届いた噂。
そんなある日、末元家に奇妙な噂が届く。四国に、静によく似た男性が暮らしているという。その男性は、海岸に流れ着いたところを救助され、過去の記憶を失っていた。しかも、末元家の家紋入りのお守りを持っているらしい。
兄の巌は、真相を確かめるために四国へ向かった。しかし、男性には会えなかった。実男は動揺する。もし、静が生きていたとしたら。澄江は、どれほど喜ぶだろう。
子供は、本当の父親に会えるかもしれない。それは、本来なら喜ぶべきことだった。しかし、実男は自分の心に生まれた、もう一つの感情に気づいてしまう。
静が帰ってきたら、自分は澄江のそばにいられなくなる。そう考えてしまったのだ。実男は、そんな自分を恥じた。兄の生存を願いながら、心のどこかでは、兄が帰ってこないことを望んでいる。
その矛盾に苦しむ実男は、澄江への思いを伝えるべきかどうか、決められずにいた。 亡き兄への愛と、生きている弟への愛。
澄江もまた、実男の気持ちに気づき始めていた。静との約束を忘れたわけではない。静を愛した過去が消えることもない。しかし、静がいなくなった後、苦しい日々をともに生きてきたのは実男だった。
子供が病気になったとき、駆けつけてくれたのも実男だった。錦戸家の商売が傾いたとき、黙って力を貸してくれたのも実男だった。澄江は考える。
静を愛したまま、実男を愛することは許されるのだろうか。そして、実男は考える。兄を忘れられない女性を、それでも愛し続けることができるのだろうか。
二人の前には、静の死という越えられない壁があった。さらに、静が生きているかもしれないという希望が、その壁をいっそう高くしていた。
兄の帰りを待つ人を、私は愛した。戦争は終わった。しかし、戦争によって失われたものは、簡単には戻らない。帰らぬ人を待ち続ける女性。父の顔を知らずに育つ子供。そして、兄の代わりに二人を守ろうとした弟。
三人の人生は、静という一人の男性によって結びついていた。それでも、実男は思う。自分は静にはなれない。静の代わりに生きることもできない。
しかし、自分自身の人生を、澄江と子供のために使うことはできる。それは、兄への裏切りなのだろうか。それとも、兄が守りたかったものを守ることになるのだろうか。
愛する人の幸せを願うことと、その人を自分のそばに置きたいと願うこと。その二つが同じではないと知ったとき、実男は一つの決断を迫られる。
戦争が引き裂いた家族と、残された人々の新しい愛。兄への敬愛と、一人の女性への思いの間で揺れる青年を描く長編恋愛小説。『兄の帰りを待つ人を、私は愛した』
拓夢書房より刊行予定。

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